海外オヤジの読書ノート

中年おじさんによる半歩遅れた読書感想文です。今年はセカンドライフとキリスト教について考えたく!

ヒトとの繋がり・人的資本の重要さを考えました ― 『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』著:宮台真司

21世紀をいよいよ迎えるという1990年代、若者文化の分析と小難しい言い回しを手に登場した氏。一世を風靡した感がありましたが、当時高校・大学時代を過ごした私は(つまり若者です)「けっ、俺の事なんか分かられてたまるか」とばかりに見向きもしませんでした。

 

おっさんになって大分たちますが、Kindleのセールで本作を発見しまして、「はて彼は結局今、どういうことを言う人になったのか」と気になり手に取ってみた次第です。

 


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端的に言えば、本書は宮台氏による日本論であると思います。

あとがきに「衒学的」とある通り、確かに時に言葉遣いは思想業界用語のクロスオーバーとなり思想・哲学・社会学に馴染みのない方には到底すんなり理解できるものではないと思います。しかしながら、良くも悪くも本書は短編集の寄せ集めの体を成すことから、筆者の主張したいこと・思いは、繰り返し語られることでおおよその理解ができる形になっていると思います。

 

若者論は日本社会論へと

宮台氏の若者論はブルセラや売春(援交)などの事象を取り上げることで「いろもの」の感がありました。しかし論の根っこは日本社会論があると思います。

 

とどのつまりは日本社会が若年層を滋養する<生活世界><中間世界>を失ったということです。なぜこうした中間組織がなくなったかと言えば社会が自由主義的になり、ヒトモノカネが自由に行き来するようになったからだと思います。過剰流動性により「まともに生きること」と「うまく生きること」に乖離が発生し、うまく生きるだけの自己に自ら価値観を見出せなくなる傾向。あるいは「こんなはずじゃなかった」という落胆。

 

その落胆の先にかつては北朝鮮であったりデモであったり、いわば埋め合わせる思想や理念(中間世界ですかね)が存在した。しかし今はあらゆる相対性の中で何でも選べるので何も選べない。自己の揺らぎ。

 

かつては地域や学校や或いは会社や、それこそ家族(生活世界ですかね)が受け止めていた包容力を失い、若者は「居所を失った」結果、承認を求めて売春やブルセラネトウヨ、ボランティア(いいことだけど)に走る、と言うような論調だと思います。ここ以降が良くわかりませんが、きっとこうやって何物かの”他”なるものによって自己を埋め合わせるようなことを「終わりなき日常」と言っているように見えました。いわば、自分探しは否定的な意味で終わりのないゴール、と言っているように思いました。

 

<生活世界><中間社会>の恢復と「包摂」

では承認されづらい不安定な社会、「うまく生きる」だけの納得のいかない社会でいいのかと言うとそうではありません。<中間社会>に代わる新たな解として、氏は「包摂」というワードで希望を表しているように思います。

 

ここでバラバラになった人たちをいわば、巻き込む。対立があってもなくても、ともに居る。連帯感や共通性は事後的に得る。なんとなればお見合い婚の夫婦の得る連れ添ったからの愛情のような? そうすることで当事者性を各人が持ち、変革の兆しを生む、という事のようです。そのための手段として「祭り」だったりインターネットだったりがキーとなることが示唆されます。

 

こんな感じで読みました。

 

おわりに

全般的にはやはり難解だと思います。乱暴にとらえれば、我々は人間資本(ヒトとの繋がり)をより強くし、そうした繋がりの団体として政治に関わるべき、という事を主張しているのでしょうか。総論は賛成です。

 

国を頼りにするのではなく自らを頼りに隣人をたすけ(たすけられ)、そしてそこから国や自治体を変えていく。あれ?これってひょっとしたら私がやりたい事と似てるかも!?

 

そうそう、あと少し疑問に思ったのは、「終わりなき日常」を生きた若者のこと。90年代の彼らって、そのままブルセラや売春をし続けて老いていくわけではないと思います。私も今は立派なおっさんになりました。そうした過去の若者たちがどうやって自己を「受容」する、ないしは社会に飲み込まれていくか、その仕組みや過程を知りたいと思いました。その飲み込まれ方がポジティブであれば、それはそれで今を生きる若者へのなにがしかのメッセージになるのかも、とふと思いました。

 

評価 ☆☆☆☆

2021/09/27

 

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