私が子供のころから有名だった本作。どうも女子向けというイメージもあり、子供のころから手を伸ばさずにおりました。長じて後、数年前にローティーンになった娘に読書習慣をつけるべく本作を与えてみたのですが、「つまらない」「眠くなる」との反応。そこで初めて私も読んでみたのでしたが、確かにすごい面白いわけではない。サスペンスはないし、アンの自意識過剰感もなんというか「やかましい」。一通り読んだのですが、特に大きな印象を持つこともない読書体験となりました。
最近、少し英米文学を読む機会があり、興味がわき本作も再読してみる気になったのですが、前回と大分印象が違いました。なぜだかわからないけど。美しい自然の描写はもとより、アンの無邪気さ、みずみずしさ、子供らしさが非常に印象的でした。
男児を所望するも手違いで女の子を引き受けることになったのは、育て親たるマリラとマシュー。彼らがアンにひかれていくのもその無邪気さや子供らしさなんだろうなと確信しています。自分の子育て経験を振り返っても、あれせい・これせい・あれはすんな・こうしなさい、と親としていろいろ喧しく躾けるくせに、かわいいなあと思うのは、外食するときに何でも好きなものを頼んでいいよと言うと「じゃあ、うな重」とか言って予期せぬ出費で親を困らせたり、懸命に何かに打ち込み着の身着のままでベッドで寝込んでしまっている寝顔を見たときだったりします。立派な大人になってほしいと思いつつ、まだまだ自分のそばでかわいい子供でいてほしいとちょっぴり願ったり。親ってなかなか勝手なものです。
アンがグリーン・ゲイブルスを離れクイーン学院への進学の希望が見えてきたころ、マリラとマシューが一抹の寂しさを吐露しますが、親目線で読んでいる私はすでに涙目。
「なんてまあ、アン、あんたはおおきくなったんだろう!」とマリラ信じられないようだったが、その言葉の後からため息を漏らした。アンの背が伸びたことにマリラは妙に、なごりおしい気持がした。とにかく、自分がかわいがったこどもが消えてしまい、そのかわりに、この背が高い、十五にもなる、まじめな目つきの娘が思索的な顔をし、小さな頭を誇らしかにそらして立っているのだ」(位置No.5780)
「アンのことを考えていたんですよ。あんまり大きな娘になったものでね ―― それにたぶん、こんどの冬にはここにはいなくなるでしょうからね。あの子がいないと、わたしはさびしくてやりきれないと思うんですよ」(位置No.5780)
普段辛辣な批評家であるマリラがこう寂しさを吐露するところに、彼女の寂しさが一層伝わります。
おわりに
正直にいうと、世間で得ている評判ほど本作が万人受けするとは到底思えない、そう感じています。自然が美しい?で何? アンみたいな子がいたらイジメにあいそう・・・私が子供だったらそう感じるに違いないと思います。
その点では、本作は大人向けの本、大人が「こども」の無垢をいつくしむ作品なのではないかと感じた次第です。文豪マーク・トウェインが本作を絶賛し、その文句がそのまま宣伝文句になったそうですが、むべなるかな、と思います。
そういえば訳者の村岡花子さんの半生が『アンと花子』というドラマになっていましたが、あちらも気になっております。どこかで安く見られないかな。
評価 ☆☆☆☆
2021/12/18