皆さんはマスコミやメディアを信じていますか?
恐らく多くの方が多少の疑いやポジショントークの可能性を考慮しつつも、まあ信じるという方が多いのではないでしょうか。私もそうです。
しかしもしマスコミが、戦争を推進する、戦争へのムードを後押しする、なかんずくそのムードを作り上げたとしたら、それでも我々は今まで通りの関係をマスコミと続けるべきなのでしょうか。
本作は、2021年に逝去された半藤氏によるマスコミ批判書です。
タイトルに「石橋湛山」とありますが、決して元総理大臣の石橋湛山についての本ではありません。日中戦争開始前後に、戦争反対・満洲撤退という持説を大いに唱えた石橋湛山率いる東洋経済新報社と、それ以外の軍部追随を行った大手マスコミとの比較を通じて、これら大手マスコミを批判する内容になっております。
マスコミは感情的になる
読後の感想は、「マスコミも感情的になる」です。
もちろん、マスコミは集団・総体であり、それ一つとしての生き物ではありません。しかし、その意見を代表する論説委員や彼らが表す社説、そして報道記事でさえ時として感情的になるようです。満洲事変に際しての朝日新聞の様子は以下の通りです。
「十八日午後十時半、奉天郊外北大営の西北側に暴戻なる支那軍が満鉄船を爆破しわが鉄道守備兵を襲撃したが、わが軍はこれに応戦した。・・・この日北大営側にて将校の指揮する三、四百名の志那兵が満鉄巡察兵と衝突した結果、ついに日支回戦を見るに至ったもので、明らかに支那側の計画的行動であることが明瞭となった」(P.116-ゴシックおよび下線は当方による)
このほかにも朝日や毎日が明らかに状況を煽情的に報道した例が本作で多数引用されます。
マスコミは反省しない
もちろん、過去のことを云々言っても詮無き事、何も元には戻らないということも事実です。人は歴史的動物であり、その時々の雰囲気に呑まれてしまうしまうことは致し方ないと思います。しかし、時が過ぎほとぼりが冷め、過去の自らを振り返り、それでも自らを批判的に見れなくなったとすれば、一層マスコミの信憑性に疑問符をつけざるを得ません。氏は『朝日新聞七十年小史』を繙きこのように述べます。
「「昭和六年年以前と以降の朝日新聞には木に竹をついだような矛盾が往々感じられるであろうが、柳条湖の爆発で一挙に準戦時体制に入るとともに、新聞紙はすべて沈黙を余儀なくされた」と説いているが、これは正確な認識ではないようである。「沈黙を余儀なくされた」のではなく、積極的に笛を吹き太鼓を叩いたのである」(P.121)
ポジティブ過ぎてもネガティブ過ぎてもいけませんが、報道機関が自省的な態度をとれないとなると致命的であると感じます。。。
ではどうすれば?何を信じればいいのか?
振り返り、現在。
今はマスコミのみならず、個人が意見をSNSやブログなどを通じネット上に自由に流すことが可能な時代です。多様な意見が世論形成を可能にした点は喜ばしいことでありますが、他方、自分の意見が間違っている可能性があり、それにより他人を良くない方向へ導く可能性もあること、そしてそうした場合には素直に反省する勇気も必要になると感じました。発言には責任も伴うということです。もちろん私のこの小文ですらその責を免れ得ません。
また、マスコミとの付き合い方にも注意が必要かもしれません。大手だからと言って正しい報道だけをしているとは限りません。シェア争いのために煽情的な記事が掲載されることもあります。株主の意向に沿って偏向的な意見が載る可能性もあります。或いは広告主などスポンサーを害する記事が掲載されない可能性も大いにあります。
では何を信じればよいのか。
それは個々人が考え、個々人が取捨選択してつかみ取るしかないのかもしれません。一国、一企業、一ブログ、そのどれもが常に考えやスタンスを変えつつ、言う事も変わるのでしょう。同じことを言っている主体も、今正しいことがそのまま将来正しいとは限りません。
ある意味でこれこそ自由の代償なのかもしません。
またこの自由の結果、多くの人が異なる意見を持ちうることになります。こうした意見の違う人々と、コミュニケーションを通じて折り合いをつける、これもまた自由の結果課された現代人の責務かもしれません。
本作を読み、そんな自由という難しさを思いました。
評価 ☆☆☆
2022/01/14