この夏に日本に一時帰国した際、息子の本棚から回収した本です。
本嫌いの息子に多少なりとも本を読ませる習慣をつけさせてくれた(私にとって)神作家の東野圭吾氏。その時息子が読んでいるというので、どうよ、と尋ねると「いやあ、だるい」と。いつもだるいだるいじゃ伝わんねえんだよと思いつつ、もう読まないというのでこちらで引き取りました。
読了して「だるい」の意味はまあ分かりました。でも私の琴線にはよく響きましたが笑
これまでホイホイと人が死ぬ刑事ものを書いてきた筆者にあって、本作の死はこれまで登場した死と比べると格段に重いと感じます。今回のテーマは脳死です。
あらすじは他所に任せますが、本作、植物状態(所謂脳死の常態)になってしまった小学生の娘を介護する母とそれを取り巻く家族の話です。お金と医療技術を駆使して植物状態の娘を2年、3年と生きながらえさせる母親に狂気じみた愛が感じられる点が本作唯一といってもいいサスペンスでしょうか。
日本の脳死プロセス、家族に決断を迫る厳しさ
作中では日本の脳死判定のプロセスが仔細に語られますが、そこから浮かび上がるのは、如何に脳がいまだに未解明であるか、そして(そのためでもあるが)、如何に脳死が人為的・手続き的死であるかということです。
私も全く不勉強でしたが、日本の場合、本人が意思表示をしていないとき、臓器移植の判断は家族に委ねられるらしい。これが2009年の法改正に当たり子供にも適用されるようになったという。つまり家族は身内の死の判断につき、委ねられることになる。
これは非常に厳しい状況であると感じます。
傍目にはちょっと居眠りしているようにしか見えないわが子、その死を(脳死として)判断しなければならない。これほど厳しい判断をしなくならない状況に、同じ親としてその心痛は同情するに余りある。
親なら、お金が続く限り子供の面倒は見たいと思う。ましてや自らこの命を奪う(延命を止める)という判断は到底簡単にはできるとは思えません。作中の祖母のように、責任を感じれば感じるほど、看護や介護への家族を駆り立てそうです。
日本の制度が海外制度にも影響?
また本作では、日本での小児の脳死についての法整備の未熟さが国際的な医療スキームにも影響を与えていることを示唆しています(日本では親に臓器提供の可否を決めさせるà決められないà小児の臓器提供者が出ないà日本の患者が高額な資金を用意して米国でドナーを得るà米国では外国人への臓器提供は全体の5%未満に抑えるかつ高額デポジットも要求も、ほとんどが日本人が枠を押さえるとか)。
まあ確かに、こういう時日本人(というか日本の政治家?)はDecision makingが苦手なのだと思います。「白黒つける」という言葉が時にネガティブに取られるくらい、領域に収まらない「おり」「にじみ」「わだかまり」みたいなものが日本では時に重きを置かれるような気さえします。
なんか、医療の現場からあがってきた脳死判断の当初ドラフトではもっとプライオリティの定まったドライな判断プロセスになっていたような気がします。全く調べていませんが。それが政治家が各所の声を取り込み折り合いをつけようとした結果が、「親が脳死判定を受けさせない限り植物状態の子供に脳死テストはうけさせなくてよい」という収まりを見せたような気がしてなりません。ほんと、何も調べていませんが。
おわりに
ということで、非常に勉強になる本でした。
脳死の現状について小説の形で学べる良作であると感じました。と同時に家族の死を受け入れる難しさを改めて感じました。他方、本作の母親が娘の死を受け入れるその仕方は若干安易にも感じられましたが。
いずれにせよ、東野作品にしては異色の非サスペンスもの。倫理・社会の題材ないしその導入にも非常によい作品であると感じました。
評価 ☆☆☆☆
2022/10/08