海外オヤジの読書ノート

中年おじさんによる半歩遅れた読書感想文です。今年はセカンドライフとキリスト教について考えたく!

胸に重いものが残る「底辺女性史」秀作 | 『サンダカン八番娼館』山崎朋子

 

3カ月にわたる一時帰国を終え、とうとう居所にもどってきました。

娘は何とか行きたい高校に進学できたものの、高3になるのに大学受験に本気が出ない息子、体の衰えも顕著で半分ボケてきた父、気になっていた確定申告を8年もそのまま放置していた母、と家庭に問題が幾つかありました。

 

「何とか楽して大学に入りたい」(これを聞いた時点で半分私キれてますが)というアホ息子は総合型受験をしたいそうで、その手の塾に3校同行し、大枚をはたいてきました(懐が痛くて涙が止まらない)。父の確定申告のミスと母の隠蔽?していた収入の申告の整理を税理士につなぎ、この税理士にも相当な大枚をはたきました(親持ちですが。ただ、付随する年金事務所とか保険会社とかとのやり取り・書類の整理や各種証明書の再発行依頼は私がやったんですがね)。

 

自虐的に言うと、仕事が暇なのが唯一の救い?かもしれません。おかげで家庭の細々とした問題に対処できました。まあ本当は転職してもっとバリバリ仕事をやってみたいのですが、家内からは「下の子が大学出る目途が立つまではダメ」ときつく言われています。高校1年の娘がたとえば大学3年になるとあと6年。わしはその時54歳。もう完全に賞味期限切れじゃないのっ。仕事でも自己実現したいってのはあるんですけどなぁ・・・。

 

ということで今回は、以前同僚だったあるおネエさんにお勧めされていた本です。


f:id:gokutubushi55:20230416235939j:image

ひとこと

納得の大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

実に重たい作品でした。しかし、これは非常に貴重な作品であると感じました。

 

 

克明に綴られる「からゆきさん」の実態

なぜ重たいか。

もちろん、いわゆる「からゆきさん」、つまり売春という性の話を取り扱っているからというのが当座の答えになります。ただし、時代背景を含めて考えるとその苦しさや悲惨さは想像を越えて余りあります。

今でこそ、性に関するトピックはややライトに語られることが増えてきたと感じますが、「からゆきさん」の向き合う現実は相当に厳しいもの。まず、多くのケースで父母によって自分が売りに出される。しかも初潮も来ないうちに、つまり性のイロハも分からないままに娼館に入り(表紙の写真を見てください)、初潮が来ると客を取らされ、多い日には30人も客を取らされたという。休みもなく、望まぬ妊娠をしても出産直前まで客を取らされる。これはもう、機械、ですよね。人間として扱ってもらえていません。

しかも娼館は海外であり、抜け出す・逃げ出すのは困難。加えてこうした「からゆきさん」らはそもそもが厳しい貧困を抱える家庭の出であり、多くが学校にも通わせてもらえなかった文盲であったとのこと。文字も読めなければ計算もできない、とくれば、女郎屋(親方)には「お前には借金がまだ残っている」と簡単に騙されてしまいます。

更にはこうした過去の経歴があだとなり、まともな結婚も望めず、結婚できたとしても体に不調を来して子を設けることも稀だった様子。自ら命を絶つ方も多かったようです。

 

教科書的にぼんやりと知っているからゆきさんという存在でしたが、改めて詳細に読むと胸に迫るものがあります。もし自分の娘・妻がそのような状況であったら、と考えるとこれほど恐ろしいことはありません。

また子を売る親の気持ちはいかばかりだったか、その思いを知りたくなります。胸が割けんばかりの苦しさだったのか、あるいは自分のことで精いっぱいだったのか。いずれにせよ、子を売らざるを得ない親、親から売りに出される子という状況は悲惨な状況です。

 

当事者の語りの重み

またこの作品が実に貴重であると思料します。本作が当事者である「からゆきさん」からの聞き書きに基づいているからです。

著者が繰り返し述べる通り、「からゆきさん」について言及する書物はそれまでの多くが第三者の紀行文的な見聞に類するもので、男性が書いたものです。しかし筆者は、当事者である女性陣から当時の話を聞き、どう感じた(感じている)かを文字に残すことで、本作をより資料的価値が高いものにしていると思います。

聞き取りが行われたのは1960年代と今から既に60年ほど前の話。「からゆきさん」本人らも自らの恥部を語りたくはなかろうし、多くの「からゆきさん」を輩出してしまった天草・島原のコミュニティもそのような聞き取りは喜ばない(地域の恥としてみなされる)。その中をおしてこれだけの収集を成し遂げた点は驚嘆に値すると思います。

後段「サンダカンの墓」では、筆者の足はシンガポール、マレーシアはクアラルンプール、イポー、カジャン、インドネシアはメダンにまで足をのばして聞き取りを行っています。

こうした記録は時代に翻弄された女性たちの苦しみの声の、ほんの氷山の一角であろうかと思うと胸がいっぱいになります。

 

「からゆきさん」から教育制度へ

男性女性に関わらず、人が自立して生きていくためには、考える力・知識をもつことが大切であろうかと思います。換言すれば教育です。その点で義務教育の果たす役割は大きいことを読後改めて実感しました。

手紙が書けない、文字が読めないというのは、人とのコニュニケーションに著しく支障をきたすはずです。ましてや苦境から脱するとき、フィジカルな会話だけしかできない「からゆきさん」達は、抜け出す望みすら自ら捨ててしまった可能性もあろうかと思います。

もちろん、文字を知っていても、計算ができても、それでもダークサイドに陥ってしまう人間は一定数いるのだと思います。しかし、本作を読み「からゆきさん」の状況を知るにつけ、幼少期の教育の機会を奪われたツケは非常に高くつくと感じました。現状を打破する力はさることながら、料理や洗濯、裁縫といった技術までも学ぶ機会がなく、長じて以降はそうしたことを学ぶ気すらなくしてしまうのです。

その点でいえば、「からゆきさん」の話は、昔は悲惨な女性がいたんだという歴史や社会科の話というだけではなく、教育制度の議論や国の方向性の話にもつながってゆくものだと感じました。

 

おわりに

ということで、山崎朋子さんの渾身の一作でした。

悲しいとか、悲惨だとか、可哀そうとか、そう語るそばから自分の言葉が陳腐になってしまう程の、語りの強さ・重さでありました。何と表現すればよいか分かりませんが、言葉を越えて、胸にずしんと来るものがありました。

筆者本人もあとがきで「<学問>としては<文学的な色彩>が濃く、<文学>としては<研究的な傾向>の強い表現方法」と呼ぶ通り、たしかに筆者の気持ちが前面に出た書きぶりであったと思います。個人的には、筆者の意図や気持ち(悲惨な境遇にあった女性たちへの強いシンパシー)がより身近に感じられ、好ましく感じました。

 

女性史に興味のある方、近現代史に関心のある方、長崎や「からゆきさん」に興味がある方、マレーシアやシンガポールにお仕事等で関係されている方、等々にはお勧めできると思います。

機会があれば私もサンダカン(マレーシア)、イポー(マレーシア)、シンガポール等に行き、本作に出てきた史跡等を巡ってみたいと思います。

 

評価     ☆☆☆☆☆

2023/04/15

海外オヤジの読書ノート - にほんブログ村
PVアクセスランキング にほんブログ村