皆さんこんにちは。
やれペンキ塗りだ、引っ越しだとバタバタしており、体のメンテナンスを怠っておりました。
本日、一カ月ぶりくらいにルームランナーに乗っかって走ってみると、どうにもしんどく、時速6.8kmがマックスという何ともスローな走りしか実現できず。
思えば20代、30代は時速10km程度で走れました。40代になりこれが8km程度になり、もうすぐ50代。
脳梗塞で死にかけたことで、老い・死を認識し始めることができました。
故に、以前感じたような「くやしさ」「もっとできるはず」という過剰な自信を持つことはなくなってきました。
ただ現実を受け入れる。そして急がない。
ただ、運動が足りなかった。そして老いも始まっている。受け入れつつ、気を取り直して、体を鍛える。淡々とやる。
と書いていて、突然ゆずの名曲が頭の中にフラッシュ。
「♪ゆっくりぃー、ゆっくりぃー、下ってくぅー」
そうそう。私の人生、そんな感じでいいです。
下るだけの高みにいることが出来たのですから。自分が想像していた高みでもなんでもないですが。
はじめに
割と短い「コヘレトへの言葉」、そして「雅歌」を読了しました。
一言でいうと、前者はニーチェ、後者は色恋歌、です笑
コヘレトの言葉
そもそもコヘレトって誰?というのが読む前にぶち当たる疑問。
そして冒頭にこうあります。
おお、ダビデの子か。なるほどと思い、ダビデの活躍した「サムエル記」をさらーりと見返してみましたが該当する名前は見つかりませんでした。ダビデの子どもというとアブロサムとソロモンくらいしか分かりません。多くの子のうちの一人、あるいはダビデの子孫という意味で「子」というワードだったのかもしれません。
さてさて、内容はというと、シニシズムに満ち満ちています。
コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい(旧1034)
この調子で、愉悦は空しい、一時の高揚の後、それはひいてゆく。知識は空しい、賢者となっても生命が終わればやがて多くのひとから忘れ去られる。努力は空しい、こうして得られたものは死んですべて無くなる、と。
この強烈なシニシズムがどこに向かうのかはよく分かりませんでした。
人知に頼っても空しくたかが知れている、身の程をわきまえてむしろ神にすがるがよい、という事なのかもしれません。
ただ、もちろん私ならば、コヘレト然としてこう言いたいところ。
「神に頼るのは空しい。誰が死後を約束してくれようか。ましてや現世であっても得られた幸せは空しい。」
ただ、こんな神の否定は聖書に載るべき内容ではないので、何か特別な意味合い・読み方があるのだと思います。
雅歌
対して雅歌。
雅歌はいいですよ。牧歌的で。8章からなる短いセクションですが、どれも瑞々しい恋の詩です。
若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
森の中に立つリンゴの木。
わたしはその木陰を慕って座り
甘い実を口に含みました。
その人は私を宴の家に伴い
私の上に愛の旗を掲げてくれました。(旧1050)
比喩を説明するまでもなく、仄かに生々しさが伝わるというものですよ。
おわりに
ということでコヘレトの言葉、および雅歌でした。
評価 ☆☆☆
2024/12/05
ダビデの活躍したサムエル記の読書ノートは以下。