概要
本作、筆者の丹野智文氏が若年性アルツハイマー型認知症の当事者として、300人超の仲間との対話から得たリアルな声を綴る一冊。
認知症になっても「何もわからなくなるわけではない」とし、周囲の"やさしさ"が当事者を追い詰める現実を指摘。偏見を脱し、工夫することでよりよく生きる道を示す、当事者の視点からの社会への提言を行うもの。
認知症当事者の気持ち、考えてみた?
認知症の方(本作中では「当事者」、以下当事者)の生の声を届ける本作、結構考えさせらえました。
人間は急には変わりません。変化は徐々に来るものです。ところが、認知症と判断されると、危ない・危険だ、心配だから、という掛け声ともに、自由も尊厳も一気に奪われる。
一人での外出は禁じられ、遊びに行くことも禁じられ、外部の人は「サポート」と称し、当事者本人ではなくその家族と話す。
認知症とは言え、別に全てが出来ないわけでもないし、全てを忘れたわけでもない。その中でやる気や工夫は概ね否定され、怒られ、叱られる。反論はしたいけど、家族や周囲も当事者の為にやっているし、当事者も家族らに迷惑をかけて申し訳ないと思っている。だからうまく言い返せない。
でも本当に悔しくて不安な思いをしているのは本人だって、分かっていますか? という話。
自由・独立の喪失
確かに、認知症というと、家族の平等性は失われてしまうのでしょう。
成人であれば、序列こそあれ、家族は概ね平等というか、まあ一個人として対等な関係が維持されると思います。しかし、認知症になるとお世話する側・される側という一方向性が固定的になり、認知症当事者の話は傾聴されない傾向にあるのではないでしょうか。
反省してしまいますね。
私の父親84歳も、認知症気味で、食欲が止まらず、一回の食事は1.5H以上で、延々と食べている印象。その父の前で、「ほら、お父さんの食欲は異常だから」とうっかり発言し、家内に肘打ちされました。
そう、それだって聞こえているのかもしれません。分かっているのかもしれません。高度経済成長期を支えた我慢強い元サラリーマンが気丈に聞き流しているだけなのかもしれません。
父が母のお世話で嫌がるのは、もうおなかいっぱいだというのにお皿に勝手に取り分ける。あるいは、ワイン(脱アルコールですが)が飲みたいのに「もうやめておこう」と止められること。で、きっと母にはには相手の気持ちとか状況とかを知ろうという気持ちは薄い可能性があります。あくまで母の判断しかない。
本人の気持ちは確認していない(怒るまではお世話する側の意見しか通らない)。
話を聞くこと
だからこそ丹野氏は、著書の中で当事者の話を聞こうと提唱しています。
私も感じましたが、おそらくこの傾聴の態度が多くの場合決定的に抜けているのだと思います。
人間、診断が下ったことで100が0になるわけではありません。徐々に90、80と下がっていくのかもしれません。そうした能力の逓減を、当事者との会話を通じて家族も社会も受け入れられたら、それは住みやすく皆が幸せな社会に一歩近づくのでしょう。
もちろん簡単ではなく、むしろムズカシイんでしょうが。
でも認知症当事者の生きづらさは、ノーマライゼーションが進む昨今では大規模かつ例外的な事例なのかもしれません。
労働だって、所謂LGBTQの人も過ごしやすかったり、オンラインでも働けたりと、多様化し開かれてきました。
私のデキの悪めの部下さんも、私の方がもう話したくなくなっちゃったんですが、じっくりお話をしないといけないのでしょうねえ、なんて卑近な話にも連結してきます…。
でもそうやって、多くの人を巻き込んで、会話して、確認して、それでやり方を変えて行かないと、みんなの幸せ度は上がらないのでしょうね。
おわりに
ということで認知症当時の心の叫びともいえる一冊でした。
家族の「心配だ」というひとことで自由も尊厳も奪われるという話が随所に出てきます。子どもを見守る親、部下を指導する上司、そのほか様々な関係に類比的に応用できます。
つまり、構造的関係の力を利用して相手の話を聞いていないのでは?ということ。
もろもろ身につまされる読書体験でありました。反省。
評価 ☆☆☆
2025/10/31

