ゴールデン・ウイークですね。
退院してから、私の父親が初の徘徊の旅に出たり、叔母が亡くなったりと、アラフィフとして老後の入り口を堪能しています。
子どもの学費のプレッシャー、嫁の更年期プレッシャー(機嫌悪いのと姑との折り合い悪いのと)、そして加えて両親の介護プレッシャーも加わりました。
来月にはそろそろ居所に帰りますが、どれもどうにかせねばなりません。
はじめに
私のお気に入り、西加奈子さんの作品。で、今回はいつも以上に惹きつけられました。何だろう。
私がどうのこうの言う前に、巻末の解説で上橋菜穂子さんが書いているこの一言がすべてを言い表している気がします。
『物語としてしか命を持ちえない作品』
これに膝を打ちました。ポイントを突きすぎて膝を強打したといっても過言ではありません。そう、理由・理屈を考える前に、この言葉が、すとん、と腹に落ちました。うまく説明できないけど。
あらすじ
編集者として働く鳴木戸定(なるきどさだ)。命名は旅行作家の父親がマルキ・ド・サドにひっかけて命名したという。病弱だった母親は定が小さい頃亡くなった。その後は父の旅行取材に同行し、知られざる民族の習俗等を父親と経験。
物語では、感情の表し方・動かし方が分からない定が、個性豊かな作家たちや同僚、知り合いと時を共にするに従い、人間らしい感情を取り戻してゆくというストーリー。
死があるからこそ、生も輝く
私が一番しっくり来たのが、定の「死」への対峙の姿勢です。
母の死、父の死(加えてその見送り方も)、また多くの旅行先での死の儀式、作家水森の死とその妻の偽装工作、乳母の悦子のガンの罹患、プロレスラー作家守口の死との境界での執筆及びプロレス活動。
一般に忌避することが多い死。
これに対峙してきた定は、死に対する一定の受け止め方を持っているように思います。他方、いち読者としては、このいづれ誰にもやってくる死をまざまざと見せつけられ、心が揺れます。
そのうえで、生きている方のさまに感銘を受けます。作家水森として筆をとった妻のヨシ、体の異常を理解しつつプロレスに臨む森口廃尊、ストレートに定への性欲を表明する盲目のイタリア人ハーフの武智。
こういうのを読んでいるとですね、なんというか、やっぱりやりたいことを素直にやらねばなあという気になります。日本ではしづらいのですが、空気とか忖度とかそういうのはいらんのではないかと。シニシズムではなく、どうせ死ぬのだから、ストレートに行こうよと。
昔からまあ個人的にはこういう方向で進んでまいりましたが、一層意を強くした次第であります。
定の醒めた目と、その周辺のキャラクターから私は勝手に上のようなメッセージを受け取った気分です。
おわりに
ということでひと月ちょいぶりの西作品でした。
これまでは「関西弁」「キャラ強め」「表現の美しさ」と、テーマ性が見えづらいけど美しい言葉を楽しむという側面を強く感じてきました。
今回、なんというか、強い「生」への渇望?「生」への賛歌(言い過ぎ)?うまく表現できませんが、生きることへの肯定感のようなもの、を感じました。
西作品への固定観念みたいなある方には是非読んでもらいたい一作。
評価 ☆☆☆☆
2024/05/02