本作は私にとって再読でありました。
きっかけは近くの市民ホールでやっていた映画の再上映です(因みに700円!)。
映画があるのは知っていましたが、見たことはありませんでした。ならば見た後に再読しようと思い、手に取りました。
ひとこと
そうですね。印象は、西さんの作品らしい、静かな騒がしさ、とでも言いましょうか。
夫婦漫才ならぬ、親子漫才的な
物語は、主人公の子供の見須子喜久子(みすじきくこ)、彼女の眼を通して描かれます。小学五年生の女の子が、北陸の田舎の港町での生活を慎ましやかに表現します。性格は母親とは真逆。頭の回転もよく、器量よしで静かなタイプ。でも運動もできちゃう。母親を冷静・冷徹に観察し、口には出さないものの突っ込みまくっています。その突込みの声がどこか作品全体に冷静さを与えているような印象です。
一方騒がしさというのは、主人公たる母親ですね。その名も見須子菊子(みすじきくこ)と、読みだけみると子供と同姓同名という。既に「なんでやねん」て読者に突っ込みを期待するような展開。このおばちゃん、これまた大阪出身のこてこて関西弁で、ちょっと頭が弱くて、体形も相当ふと目で、見た目も器量よしとは言えない。まあ悪目立ちする感じです。それでいつの間にかついた愛称が「肉子」。
この親子、どこからどう見ても似ていないのです。で、ここまでで勘の良い方は概ね方向性が読めるのでしょう。ぼんやりいうと、終盤に向けて親子関係の真実がつまびらかになる、というものです。
肉子ちゃんが体現するものとは
さて、ここで改めてタイトルを確認して頂きたいんです。「漁港の肉子ちゃん」。ストーリの視点は子供からのものですが、それでもタイトルはその母親の愛称(「肉子」)なのです。私は、西さんがここに何らかの思いを込めたのかなって考えてしまいました。
デブでブスでしかもアホ、でも飛びぬけて明るくて、人が良い肉子ちゃん。逆境にもめげないし、他人のことを悪く言わない。そんな人の良さの価値を問うている気がします。
会社とかでは違いますよね。真逆。「いい人なんだけど・・・」という枕詞は、仕事できないんじゃおのれボケこの給与泥棒、と言い換えてもまあ7割くらいは意味が通じると思います。性格悪くて仕事ができる人と、性格良いけど仕事ができない人だと、前者が可愛がられ出世すると思います。つまり、人の良さは必ずしも業務上の価値として認められるわけではないと。
でも家族ならどうでしょう。むしろこの「人の良さ」を家族こそが認め受け入れることが大事なのかなあと。丁度、喜久子が菊子を受け入れたように。
というのはですね、つい先ほども80を超える母親と喧嘩したのですよ(しょうもない話ですが、鍋の洗い方について)。うちの母親はお嬢様育ちで、買い物大好き、物溜めまくる、壊れてなくても新しいもの買いたがる(因みに古いのも捨てない)、そのくせ整理とかド下手、散らかしっぱなし。だけどめちゃくちゃ外面いいし、頑固で自分の考えを曲げない、という超めんどくさい人なのです。私の家内も「お母さんとは絶対一緒に暮らせない」と頭を抱えるくらい。
随分前、もうかれこれ20年くらい前に父親に、独自ロジックが半端ない母親の面倒臭さを指摘していたんですよ、よくもまあ結婚していられるね、と(失礼な話です)。すると父親、ぽつりと絞り出したのは「あれは悪気は一切ないんだよ」と。
父親は、母親の人の良さ・裏表(悪意)のなさを見て、それ以外の欠点を吞み込んでいるように見えました。
本作を読んだら、そんな父親との会話を思い出しました。
人を見れば、悪いところは簡単に見つかる。家族だからこそ、悪いところではなくて良いところを見てあげないといけないのかなあと。母親だけでなく、嫁や子供たちに対してもそうですね。まあ簡単ではありませんが。
小説推し
あと、映画(アニメ)もありますが、断然小説を推します。
小説では喜久子は第六感があったり、見えないものが見えたり、虫や生き物の喋りも感じ取ってしまうちょっと不思議な感じの子として描かれています。でも映画ではこのあたりの描写は弱い。また小説ではマキさんとか金子さんとか、癖強めの面白いキャラは省かれていました。映画はですね、全般的に小説の内容を端折って尺に収めた、というイメージを抱きました。
おわりに
ということで久しぶりの西作品でした。
港町でのうるさくて静かなお話です。一般受けする感じではないのですが、私はこの西さんの醸す雰囲気が好きでついつい読んでしまいます。
因みにですが、私と母の喧嘩の原因。焼き芋焼き鍋にこびりついたサツマイモの蜜です(!)。母親「そんなのを洗い流したら水道が詰まるからやめてくれ」、私「それくらいじゃ詰まらない、さっさと洗わせてくれ」。
くだらないですよね。さていずれが正しいか。でも今は正否は問うまいよ。明日私が頭を下げますよ。
評価 ☆☆☆
2023/02/27