日本哲学界の若手スター(と私が勝手に思っている)東氏の著作。
副題がオタクから見た日本社会とある通り、一見簡単そうに見えますが、中盤からぐっと内容が難しくなるように感じました。
内容は。。。
ポストモダンの時代は、宗教とか主義とか或いは家柄とかのこれまで信じることのできた所謂「大きな物語」が喪失された時代だとしています。それにとって代わったのが「大きな非物語」であるデータベース(個別の要素的なストーリの集積)と、そこからシミュラークル(複製)を通じて多数生成される小さな物語。ありきたりの感動や表現がこれでもかと生成され、さくっと流行し消費され、いつの間にか忘れ去られる。そのようなに消費的に欲求する「動物的」態度こそがポストモダンの特徴であり、そのポストモダンの特徴を端的に表すものこそオタクだ、とこう読みました。
全体を通して読みやすく綺麗にまとめられており、書いた人は頭の良い人なのだろうなと読んでいて感じました。表現に過不足がなく、段落の切れ目とかもいちいち丁度よい。また新書にも拘わらず参考文献のまとめもしっかりしており、巻末と途中を行ったり来たりしても何ら問題もなく読めました。
その他、印象的であったのは、いわゆるインターネットの世界での「横滑り」論。フォトショップで描いた東氏の書作表紙のイメージ・それをコマンド化したもの(英語のような所謂プログラミング言語)、そして16進数化したもの(所謂機械語と呼ばれるもの)と三つの表象で表されたものの本質をどう突き止めるかと問います。微分的に見ていくと、これらの表象はいずれ二進数の数字の羅列に行き着くのでしょうが、それはすべての命令をコンピュータにわかる形で置換したものであり、いつまでたっても表面をなでるだけで本質にたどり着けない「横滑り」の様相を呈してしまうというもの。
結果、IT化された現代社会では、「大きな非物語」をとらえようとしても表面を感じるだけであり、その世界は「可視化」されない世界となります。ポストモダンの現代は複製的に流行りそうなよくある物語しか世にはなく、かつ信じられる絶対的なもの(「大きな物語」)はすでになく、代替されるもの(「大きな非物語」)は断片のデーターベースの要素としてしか認識できず全体としては見通せない。言ったら、本物のない、あるいは本物は直観という根拠のないやり方でしかつかむことのできない、答えのない世界ということなのでしょうか?
当方頭が悪いので、すべて理解できたとは思いませんが、横滑りだったり、現代という世情のとらえ方にへー、とか、なるほどとか思いつつ、他方で東氏は何となく絶対的な何か(救い?)を求めているようにも(勝手に)感じました。
著書は最後に、当書は今後の現代の状況を自由に議論するための叩き台としてほしいという旨を述べています。これはこれで筆者の本心なのでしょうが、他方で「大きな物語」や「決して可視化されない」「大きな非物語」を論じている東氏はこうした世界をメタ的に認知しているわけで、単に近現代からポストモダンへ遷移する思想状況を整理したいだけなのではなく、むしろ私は、こうしたメタ的認知を可能にする人間の思想力?直観力?をもって人間という「大きな物語」を規定したいのではと勘繰りました。私自身はそうした方向を志向してしまいます笑。
ということで、纏めるますと、とてもきれいで丁寧にまとめられた現代思想本です。フランスポストモダン思想を学ぶ入り口としてもいいのだと思います。これをきっかけにもう少し東氏の著作も読んでみたくなりました。
評価 ☆☆☆☆
2020/02/01
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