はじめに
英国のカズオ・イシグロによる1986年の作品。なお彼は2017年にノーベル文学賞を受賞。
戦後間もない1948年から1950年の日本を舞台に、戦前・戦中にもてはやされた某画家の、戦後の葛藤と追想を綴る。
時代のせいか、個人のせいか
久し振りにカズオ・イシグロの作品を読みました。
いやあ、面白かったです。
何が良かったかというと、戦後の価値観大逆転の動乱と個人の責任の有無みたいなところ。
換言すれば、時代性の影響力と個人の責任範囲、とでも言ったところでしょうか。
軍国少年とか、皇国少年とか、やいのやいの言っていたものの、敗戦が決まると180度態度を変える。それでもって彼らを「戦争を持ち上げやがって」などとなじると「仕方がなかった」「みんなそうだった」「そうせざるを得なかった」等返答するやもしれません。
本作主人公は、戦前戦中に名を馳せた画家とみられます。おそらく国威掲揚に加担してしまったのでしょう、かつての弟子たちに逆恨みされたり、家族からも一部疎んじられたりしている様子が描かれています。
私が感じた疑問は、こうした時代の不幸の責任をどこまで個人が負わなければならないのか、みたいな話です。
作中では、元画家小野は戦前戦中に指導的立場であり、当時の弟子の黒田や信太郎はおかげで戦後にあやうく冷や飯を食わされる所であったわけです。いくら「時代がそうだった」とは言え、弟子たちは師匠を恨み、師匠(小野)は自らを悔い、そして世間は彼らに戦争の責任を一旦を負わせようとします。
この話、時間軸をもうちょっと拡大し、国家間の関係で考えるとどうでしょう。
日本の戦争責任は今でも中国や韓国から謗りを受ける昨今、もはやその責任は時代性云々の話ではなく、その土地・民族にまで拡大されてしまっているようにも見えます。じゃあうちの子みたいにハーフの場合は(責任があるとしたら)その責任も半分でいいの?等々
やや脱線しましたが、時代からの影響と個人の責任という話でした。
別に結論があるわけではないのですが(black or whiteで解決するような話ではないでしょうし)、より自由な選択ができる現在、仮に個人が(とりわけ成人以降の方が)何らかの状況に加担したとして、時代・雰囲気・集団へ責任を求めることはより難しくなるのかもしれません。
いずれにせよ、考えるネタとしては面白いかもと思った次第です。
すげえ日本語訳
さて、訳者の飛田氏は既に鬼籍に入られておりますが、その彼が本作を翻訳したのが1988年。いやあ、彼の翻訳にとんでもなく感動しました。
もちろん作家は日系人(日本生まれ)とはいえ、原文は英語です。当然ながら人名もローマ字表記な筈です。
ところが本作を読むと、戦後の焼け野原の日本がありありと脳裏に浮かびます。戦前戦中のちょっといかめしく格式ばった日本語が、和装・一家の大黒柱・和式建築等を想起させます。というか本当に翻訳ですかこれ?みたいな印象。
途中でその訳のすごさに、これはどう訳したのかと驚いたものをあたらめて拾ってみると、
『たかだかホワイトカラーの仕事にありつけただけなのに』(P.36; 原語はだたのget?ありつけた、って??)
『なにもそうむくれることもあるまい』(P.57; Don’t be so sulky とか?むくれるって?)
『ぼくに言わせれば、それこそ卑劣極まる態度です』(P.87; This is what we say as abjection to us ?それこそ、の原語が知りたい)
『自分の軽はずみを責めるのに…』(P.233; 原語はcarelessness? だったら自分なら軽率さって直訳だわ)
などなど。こういう、こなれた感をまるまる一冊維持するというのはもう職人技ですよね。
おわりに
ということでカズオ・イシグロの作品でした。
本作もどんよりと不穏な空気が漂う、尻のすわりのよくない?作風でした。こういう作品は日英両方で首っ引きで読みたいものですよね。英語版もどこかで安く売ってたら買うんだけどなあ。
評価 ☆☆☆☆
2024/10/02