小学四年生のアオヤマ君
小学四年生だったころ、自分は何を考えていたか。
ポテチが食べたい、アイスとか買い食いしたい、給食で友人を笑わせて牛乳吹かせたい、野球でホームランを打ってみたい。
そう、つまりは普通の、それも極めて普通の小学生。
しかし、本作の主人公アオヤマ君は違う。
彼は五歳になったときから、以降怒らないと決めている(そして本当に怒らない)。そして多くの研究を抱え、それを父の教えにならい、ロジカルに解決に導こうとする。ましてや、父の「でも本当は何が問題かっていうことが一番難しかったりする」なんていうひとことにも、したり顔でその発言を受け止める。
「ペンギン・ハイウェイ」はそんな「科学の子」アオヤマ君と、歯科医院に勤務する不思議なお姉さんの話。
森見氏のむっつりテイストは健在!?
ここまで読むと(そして表紙を見ると)、森見作品を幾つか読んでいる方ですと「あれ?」となると思います。
私がこれまで読んできた森見作品ですと、やはりブサメン系の大学生がうっかり恋をして、いかんいかんこれではだめだぁー、みたいな恋愛未満の自分に思い悩むような筋立てが多かったのです。
でもご安心ください。
本作では小学生の推薦図書にはしづらいある要素がしっかり入っています。
「おっぱい」
そう。主人公アオヤマ君は、激しくおっぱいに惚れているのです。
「アオヤマ君はスズキ君にも怒らないんだね」
「怒りそうになったら、おっぱいのことを考えるといいよ。そうすると心がたいへん平和になるんだ」
「ぼく、アオヤマ君はえらいと思うけども……でも、あまりそういうことを考えるのはよくない」
「おっぱいのこと?」
「分からないけど。でも、よくないような気がするな」
「ずっと考えているわけではないよ。毎日ほんの三十分ぐらいだから」(P50-P51)
そう、変態要素十分です。
森見氏の忖度ない人物造形により、これは夏休みの課題図書から大分離れた気がします。映画化はしていたけど。
でも、もちろんですが、いっそうアオヤマ君のエッジを光らせますね。
頭はいい。だけど社会の雰囲気を読むとか、また女の子の気持ち(特にハマモトさん!)を感じとることに難あり。まあその点ではある意味普通の男の子であり、それもまた可愛らしいといえば可愛らしい。
子どもの洞察力
さて、私が本作でもういひとつ挙げておきたいのが、死への気づき、です。
まあ、挙げてどうなるわけでもないのですが、私も小学生かそこいらの時この事実に気づきました。
自分がいつか死んでしまう、その時は意識も肉体もすべて失われると。それが分かったら、お尻がむずむず、飛行機の離陸したときのような気持ちになったことを覚えています。
本作でも、アオヤマ君とウチダ君が死について哲学的議論を交わす場面があります(P.288-291)。
ウチダ君によると、彼が死んでしまってもそれは彼以外の(例えばアオヤマ君の)世界からの死の認定であり、死んだウチダ君にとっては死は認知できない(だって死んでいるから)。加えて生きた世界からの死と、死んだ本人との死の感覚の比較は決してできないので、死は測りえない、みたいなことを言う場面があります。
これは認識論やフッサールの現象学の<自己>、唯我論みたいなものへ広がりますが、死というありふれている割に語りづらいものについての、とてもよい表出訓練であると思います。
まったく本筋でないけど、このくだりが響きましたっていう話です笑
結局・・・・
でそういう端々のことに気を取られつつ物語を読み進めていったのですが、結末は何だかもの悲しい終わり方でした。
ペンギンも、シロナガスクジラも、<海>もすべて消えてしまい、そしてお姉さんも消えてしまった。その論理的な説明は将来アオヤマ少年ができるようになる、かもしれません。
おわりに
ということで森見作品でした。これまで三作ほど読んでいましたが、本作品はテイストがやや異なりました。
もっとbildungsroman(自己陶冶・自己成長小説)の要素が多いものだったと思います。
主人公が小学生ですが、多分高校生以降くらいがよくかみ砕くように読むほうが味わい深く読めると思います。下手に主人公が小学生ということで小学生高学年の子が読んだら「おっぱい、おっぱいって、このアオヤマは変態だ」などとなりそうです(あれ?私の感想もそんな感じかも…)
甘酸っぱい夏の香りがする小説でした。盛夏の一抹の清涼剤としていかがでしょうか。
評価 ☆☆☆
2024/07/28