皆さん、こんにちは。
9月の(プライベートの)忙しさが一段落しました。祝日やら有休やらをとってその忙しさに対応した結果、当然ながら仕事の残務が相応に発生し、今度は仕事がやや慌ただしくなってきました。といっても、基本は窓際なので知れてはいますが。
ということで読書がなかなかできません。
今回のレビュー部分も、大分長い時間かけて読んでしまったため、もはやうろ覚えでありますが…。
ということで本題に参ります。
はじめに
冒頭でパウロがローマの宗教仲間に送った手紙みたいな感じでしたが、最終節で「この手紙を筆記したわたしテルティオが」と出てきたため、え?結局作者だれ?って感じになりました。
困ったときのwikipediaによりますと、やはりパウロが作者だったらしい。それをお弟子(弟弟子みたいなの)が筆記したそうな。にしても、この「ローマの信徒への~」はキリスト教的には大層重要だとのことで。
私は何だか、どんどん宗教ががってきた(いや宗教なんですけどね)って感じました。
脱ユダヤというか汎ユダヤ!?
最も感じたのは、ユダヤの旧約聖書からはじまり、これをイエス流に汎ユダヤ(というか反ユダヤ?あるいは半ユダヤ?)に解釈するような方向に行くかのような印象を受けました。
異なる表現でいうと、いわゆる民族宗教であったユダヤ教をより開かれた宗教にする(まあそれがキリスト教ですよね)、という流れです。
例えば以下のような部分。
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人であるものこそユダヤ人であり、文字ではなく、”霊”によって心に施された割礼こそが割礼なのです」(2.28)
あるいは以下の部分とか。
ユダヤ人がつまづいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の冨となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう(11.11)
どうでしょうか。
割礼という外見ではなくて、内面の信仰こそが宗教者としての印となるということですよね。ここにユダヤだけのユダヤ教ではなく、ユダヤ教をベースとした開かれたキリスト教の性質が見て取れます。
更に異邦人とユダヤ人との関係についての痛烈なユダヤ批判!? 前後はやや読み取りづらいのですが、つまづいたものは神から罰せられ、残ったもの(異邦人もこれに含まれるとパウロは解釈していると思います)に恩恵がある、とするものです。
こういうのを読むと、ユダヤ教は決してキリスト教を認めないだろう(だってやっぱりシニカルですよ)、なんなら異端としてキリストを殺したのも分からないでもありません。
おわりに
ということで、ローマの信徒への手紙でした。
旧約に基づきつつも、ユダヤ人をいじっている?というか小ばかにしているように見えなくもない部分、そして神は凄い・神はえらいみたいな非常に宗教がかった部分が多いように感じました。
まあ宗教なので宗教っぽいのは当然ですが。
ということで次回は「コリントの信徒への手紙一(いち)」へ進みます。
評価 ☆☆☆
2025/10/01
これまで読んできた新約聖書のレビューは以下


